【追悼】南海ホークス・3番ライト・門田博光・背番号27の思い出 | ポンタ監督ブログ

【追悼】南海ホークス・3番ライト・門田博光・背番号27の思い出

野球

夕方、スマホに門田博光さん急死という速報が届いた。

思わず、「えっ!」って声が出た。

予定されていた通院治療に現れなかったので、病院から相談を受けた警察官が自宅を訪ねたところ、門田さんが倒れていたと。

オリックスに吉田正尚選手が入団してその打撃を見た時、一番に思ったのが「門田みたいや」でした。

パ・リーグ一筋の門田さん、74歳は、まだ早すぎますよ・・・残念です。

通算567本塁打は王さん、野村さんに次ぐ歴代3位

門田博光さんというと「不惑の大砲」といわれ、プロ23年間で王さん、野村さんに次ぐ歴代3位の通算567本塁打。

本塁打王3度、打点王2度、最高出塁率3度、通算1678打点は歴代3位。

通算2566安打は歴代4位で、2006年には殿堂入り。

1979年の春季キャンプでアキレス腱断裂の重傷を負い、復活後はDHとして活躍したので打つイメージだけの方が多いかも。

しかし、天理高校時代は、3年間で1本も本塁打を打っていないと話されていました。

背番号27・44・60・78・53

・27(1970年~1979年)南海ホークス
・44(1980年~1982年)南海ホークス
・60(1983年~1988年)南海ホークス
・78(1989年~1990年)オリックス・ブレーブス
・53(1991年~1992年)福岡ダイエーホークス

門田選手と言うと、ホームランバッターとしての背番号44、60、78時代のイメージの方が多いかもしれませんね。

でも、私が一番覚えてるのは背番号27で、強肩外野手としてライトを守って3番を打ってる頃の門田選手。

1969年のドラフトで南海にドラフト2位指名され、社会人野球のクラレ岡山から入団。

1970年の開幕戦に2番ライトでスタメン出場したことでもわかるように、俊足、強肩、好打のイメージの選手でした。

体型もかなりふくよかになり、指名打者でホームランを量産する強打者として覚えてる方がほとんどでしょうね。

ライト門田博光の守備

1979年にアキレス腱を断裂して以来、守備に就くことは無くなってしまいましたが、その強肩はよく見ましたね。

門田選手は、その強肩で1971年~1977年のシーズンで2桁補殺を5度記録しています。

門田選手の守備のイメージはあまりないと思いますので、実際に球場で見たその守備について書いてみます。

当時、南海のセンターを守っていた広瀬叔功氏が自身の著書の中で、

「彼(門田)は守備範囲も決して狭くなく、右中間寄りのフライもさばき、大声で叫ぶ声を聞いた記憶はほとんどない」

「グラブを柔らかく使いこなした捕球も上手かったが、肩が強くてしばしばホームで相手走者を刺した」

「打撃と違ってしゃにむに速い球を返すのではなく、無駄な動きを抑えて素早く正確にワンバウンドの送球をしていた」

と書かれています。

私が、門田選手で一番覚えているのは、他の選手よりはるかに指の部分の長い外野手用のグラブ。

ギリギリの打球を何とかグラブに収めるための特注グラブかなといつも思って見ていました。

そんな門田選手の大きなグラブを見て、近鉄ファンはライトを守る背番号27の門田選手に、

「門田~!そのグローブ違反ちゃうんかぁ!」とか「そんなんどこに売ってたんや~!」ってよくヤジってましたね。

今となっては、懐かしい思い出です。

不惑の大砲 40歳でのMVP

40歳で迎えた1988年には、44本塁打、125打点で2冠を獲得。

チームは5位ながら、40歳でのMVP選出はプロ野球史上最年長記録で、現在もプロ野球最年長のMVPとなっています。

引退後は、指導者としてユニフォームを着ることはありませんでしたが、その技術を後輩たちに伝授して欲しかったです。

日生球場や大阪球場でよく見た門田選手のご冥福をお祈りします。

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